昭和五十七年二月七日 朝の御理解

x 御理解第八十四節 「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛ではないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」


 細い道でも次第に踏み広げて、広いおおきな立派な道にしていかなければなりません。問題は長う続く、という事です。しかも只、続いておるだけではいけません。踏み広げて行かなきゃいけません、ね。立派なより、ものにしていかなければいけない。それには私共がやはり心掛けとして頂かなければならん事がこの驕りがましい、というような事だと思うです。驕りがましい、という事はどういう事だろう。ま、この辺の言葉で、げいしょんかなわんくせに、といったような事を申しますね。
 身分不相応な事を致しますと、ね。自分が力もないのに、ね。ま、大きな事をするとか贅沢な事をするとか、という、ま、意味ですね。げいしょんかなわん事をする。そのげいしょんかなわん事をする事が私は驕りがましい事だと思うんですよ。贅沢、というか、どんなに立派な品物でも食物でも、ね。例えばなら衣類なら衣類だけでもです。天地の親神様が人間氏子の為に作り与えて下さる。どんなに最高の物でも、その最高の物が身につけられるようなおかげを頂いきたいですね。
 それが、ま、自然、に、ですよ、踏み広げていくうちに、ね。人から見たらまあ素晴らしい、ま、贅沢な事だな、と思われるようなおかげも頂きたい、という事です。何かね、お道の信心の中に何か、こう始末倹約をする、という事だけがお道の信心、信心ぶりのように、ね、思われて来ておる。そんなイメージがあるんですね。先達て、もう遠方から御参拝というのも、見学に見えたんでしょうねえ。してその、御礼の手紙が、して、ま、最後には娘も是非おかげ頂きたい、というふうに書いてあったから、その、まんざらどうち言う事はないでしょうけども、ま、合楽に行って、その、ま、以外だったのはね。
 ま~、部屋部屋の、ま、例えば調度品一つでも最高の物が置いてあった、という事だというような事にもうがっかりした、といったような事が手紙に書いてあったです。決して最高のものが置いてあるわけでもなからなければ、というてそんなら私が、自分の好みで集めた、というものでもない。それこそ自然に踏み広げて通るようにして踏み広げて来ておるのが、今日の合楽であり、これからまあだどれほどなら踏み広げて行くか、ならこれからも例えば、部屋の調度品一つでも、もっともっとすばらしい物が置かれるようになるやもわかりません、なる、と私は思います。
 だからそれを贅沢、とかそれを見てがっかりするような事ではおかげは受けられません。ね。神様が下さる、もうどんな最高のものでも頂けれるような、身につけられるようなおかげを頂きたいです。それにはやはり自らを知らなきゃなりませんが、です、ね。驕りがましい事という事は私は自分に手の届かないものに手を出そうとする事が驕りがましい、というふうに頂いたらよかろうと思うです。だから与えられるもの、それはどんな、いやあとてもこれは私に勿体ない、というて向うへ押し返す事はかえって神様に対して御無礼になるような気が致しますね。
 例えば今日は久富繁雄さんが見えてないようですけども、見えていないのと見えておる、というのとは私にとっては大変違うんですよ。繁雄さんが見えておって頂くともう昼頃までは、私はもう兎に角楽する事が出来るんです、ね。いわゆる、まあ奉仕をして帰って下さる。どこか、頭が痛うても腹が痛うても足が痛うても、ね、繁雄さんがおって頂くと楽なんです。ね。今日は見えとらん、今日は頭が痛いから繁雄さんにちょっと電話をかけてくれ、といった事はまあだ一遍もありません、私は、ね。
 ですから毎日、そしてあのう、まあ喜んで、か、すすんで、か、そりゃあ繁雄さんの内容ですからわかりませんけれども、御用して下さる方があるから、いや、そりゃもう勿体ないからいらんですばい、とは言わない、というて見えてないから、なら電話かけて来てもらえ、車でなと迎えに行ってくれ、といったような事は申しませんです。驕りがましい、というのはそういう事だ、というふうに私は解しておるんです、ね。そして、なら、繁雄さんが見えてないなら見えてない事が、ま、難儀であるならばそれは、今日は修行さして頂くな、という頂き方なんです。
 昨日、福岡の伊藤さん、御礼参拝して見えました。まあ、どこもここも今風邪で何日間か休んでおられた。色々、まあところがそれの代わりのように御主人がまた休みつかれた。それでまあ、自分としてはあの、おかげ頂いたから御礼参拝と、思うけれども御主人が信心がないからまあ、御礼参拝とは言わずに歯医者によって郵便局に行ってこうとこう言うたら合楽には御礼参拝せんでよいのか、ち言わっしゃったげな。
 ほんにそうですね、なら御礼参拝もついでにして来ます、と言うて出て来たというのです。ま、主人が、ね、合楽に御礼参拝せんでいいのか、と言うてくれたのが大変有難かった、と言われた時に、私が頂いたのがz「洗礼」という事を頂いたです。洗礼というのは、ま、キリスト教の用語でしょうね。私、どういう意味が佐田先生直ぐ字引を引いてくれましたが、結局キリスト教に帰依する、という、まあ、仏教で言う得度、という意味じゃないでしょうかね。いうならば洗礼を受けたらもうキリスト教の信者になりました、という事なんでしょうね。
 お道の信心でいうならば、もう改式でもさせて頂いた、といったような事じゃないでしょうかね。普通ではあのう、その洗礼という言葉を火の洗礼を受ける、とかね、爆弾の洗礼を受ける、とか、というふうにも申しますけども、私はその洗礼という事を頂いて、ははあもう風邪、どこもですがねえ、昨日古川先生がお届けしてましたが、寒修行が終わったら、退院して、まあだ御礼参拝してませんからおかげ頂くように連絡がしてあったらしい。
 そしたらあちらから電話がかかってきてから、今本部の方へ来てはいけない、というて、もう風邪がいっぱい。もう古川家もみんな風邪で倒れてるから、写りどんしちゃならんから一時期すぎてから来い、というて電話がかかった、というようにその洗礼を受けておられる、ね。だから洗礼を受けておる、という事がわかったら、例えば風邪がよくなったから御礼参拝するのじゃないですね、ね。洗礼を受けた事が御礼でなからなきゃならんのです。
 ここの久保山さん一家が、ね。今、全部かぜで倒れておられるそうです。時々、そこの、合楽食堂のお母さんが御見舞いに、もう兎に角酷くて、兎に角御飯炊くもんがない、というぐらいだった、一時は。それでお取次頂いて御神米を持って行かれる。丁度光昭先生が座っとったから、あのう御取次をさして頂いたら風邪を引いておる、という事は、あの、お薬を頂いておる、という事と同じですよ、と言ったそうです。
 私も意味がわからなかった、そん時聞いた時には、風邪を引いたのがどうしてお薬を頂く事だろうか。これは大きな意味合いに於てですよ、ね。いうならば、私共にはわからんけれども神様が、ね。いうならば洗礼しておって下さる、んだ、と。まあそれをわかりようするなら、めぐりのお取払いを下さっておるんだ、といった方がいいかも知れませんね。だから、お薬を頂くような気持で頂かしてもろたらどうぞ毒が薬になりますように、毒薬変じて薬になるようなひとつおかげを頂かしてもろうて、ね。その、風邪のあとが、ひとしお、というか一段と健康になる、というおかげにもなるのじゃないかな、というふうに思うたです。
 もう兎に角御礼を申し上げる、という以外にはない。ただ願った事が成就したから御礼ではない。風邪が治ったから御礼参拝ではない。洗礼を受けておった事が有難い、として御礼が申し上げられるような信心、ね。例えば誰でも楽なおかげを頂いたがいいけれども、その楽なおかげも自分から手を出して楽になろう、という思いを捨てる事。その事が修行だと思います。修行の精神だと思います。ね。そしてあゝ、今日は繁雄さんが来てもらうとほんによかったけども、こんなにきつい時だから、と、例えば思うても、もし見えてない、なら今日は結構な修行をさして頂きます、という、そういう頂き方が、です。私はいよいよ、ね。
 狭くても広く踏み広げて行く道というか、手立てというのはそういう、まあ生き方を身につけていく事、だ、と思うんです。(-)ひいたら(+)たしてみる、たしたらひいてみる。(×)かけたら(÷)わってみる、わったらかけてみる、というようにね。確かな生き方を身につけていく、という所に、その手立て、にです、ね。驕りがましい事は絶対しない、とこう決めること。楽はしない、という気になれ。楽はさせて頂け、とありますから、ね。どうぞ